安土城へ行ってきた。【登山編】その2の続き。どうにかこうにか、ようやく天守閣・本丸跡までたどり着きました。まず目に入ったのが、黒金門跡(南西出入口)の案内看板。
この案内図によると、
「安土山の標高は180m」
「安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。」
「主郭部の石垣は、昭和35年~48年度に修理工事が行われています。石垣の天端が揃っているものは修理したところで、崩れているもの(二の丸・天主代)は廃城後そのままの状態を保った石垣です。」
とのこと。
ちなみに、ちなみにですが、iPhoneに入っている「ヘルスケア」というアプリが勝手に万歩計としてカウントしてくれてるんですが、登った階段のカウントが27階でした。180mが高いのか低いのかわかりませんが、30階建てのマンションの高さが約90mぐらいのようです。…ね。
気を取り直して、天主跡周辺の石垣、石段たち。
ここまでくると少々の石段はあるものの、ここに来るまでのことを考えれば楽なものです。
本丸前にはこんなものが。
石段にあった石仏と同様に石材として石垣に使われていたもののようです。
天主跡・本丸跡と比べると少々地味です。織田信長公本廟もこの奥にあります。
羽柴秀吉が太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬したそうです。禁立入の注意書きのとおり、周辺には柵が張り巡らされており、近くまで行くことはできません。
たまに石垣どーーーん。こんな山の上なのにでっかい石を使った立派な石垣が残っています。400年前にこんなものどうやって持ってきたのか…
現在は木々が茂っていますが、案内版によると「東西約34m×南北約24mの東西に細長い敷地」だったようです。
そしてここを曲がるといよいよ天主跡です。
他の建物跡と同様に天主跡にも礎石がそのまま残っています。安土城の天守閣は地下一階地上六階建ての当時としては高層の建築物だったといわれています。写真の礎石は地下の部分から支えていて、おそらくは奥に見える石垣が地上一階の高さだったみたいです。(現在の石垣は流石に400年前からは少々削られているようです。)
天主跡から北側を望むとやや奥に琵琶湖と山々が見られます。安土城築城当時は、安土山と琵琶湖は直接面していたそうで、防衛だけでなく船を利用した移動、運搬にも適していたようです。
ここまで登ってきた甲斐あって、見晴らしの良い景色を拝むことができました。440年前の築城当時から残されているものもあって、楽しみながら登ることができました。写真撮ったり観察したりで、天主跡に到着するまで一時間ぐらい掛かっています。このあと、下山する際は、登りと違う経路をたどる為、また写真撮ったり看板読んだりで、さらに一時間弱掛かりました。
安土城跡へ行かれる際は、動きやすい靴でどうぞ。
安土城へ行ってきた。
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